※このサイトはアフィリエイト広告を使用しています。
初めてのヨルシカ
今回のライブは、2023年に開催されたライブツアー【月と猫のダンス】の追加公演ですが、1人朗読劇のコンセプトはそのままに、演出・脚本を再構築した内容となっている。
4月6日(土)~7日(日)の2日間、東京・有明アリーナにて行われた。両日とも申し込んだものの、私が当選したのは2日目である7日のみだった。
そしてこのライブは、私にとって人生初のヨルシカライブである。
今回の座席
S席、A席、注釈付き指定席と3種類の券種があったが、今回はA席での観覧だった。
当たっただけ、ヨルシカを生で体感できるだけありがたい、本当に…
グッズ
事前通販のおかげで、公演約1週間前にはグッズが手元に届いた。
新しく追加されたデザインの白いTシャツとラバーバンド、写真にはないがタオル(こちらは昨年のデザインのもの)も購入。
長時間並ぶのが苦手な人間には非常に有難いシステムだ。
とはいえ、申し込むのが遅かったためにオフィシャルグッズのなかのFC会員限定のグッズは購入することが出来なかった…
記念に青緑のFC限定ラバーバンドが欲しかったので、早めに家を出て並ぶことに。
いつもは並ぶ時間と待つ時間を極力少なくするために、開演15~20分前を目安に到着するよう計画的に家を出るが、今回はなんせ初めてのヨルシカですゆえ!!
ワクワクルンルン気分で家を出ましたが、結局14時過ぎの到着では間に合わず売り切れてました…
が、FCの企画のオリジナルピックは無事に手に入れることができました!(最初は同じ柄だったけどブースのお姉さんがサラッと変えて渡してくれた!優しい泣)
そして2つとも欲しかった柄だったのハッピーすぎる。
セットリスト
朗読劇①
ブレーメン
雨とカプチーノ
朗読劇②
さよならモルテン
又三郎
朗読劇③
月に吠える
451
朗読劇④
都落ち
ただ君に晴れ
チノカテ
朗読劇⑤
第五夜
雪国
いさな
朗読劇⑥
斜陽
靴の花火
朗読劇⑦
左右盲
春泥棒
アルジャーノン
朗読劇⑧
ライブの感想
事前情報は入れずに
まっさらな状態で、ヨルシカのライブで自分自身が感じる気持ちや心の動きを大切にしたいと思い、公式が出している情報以外はあえて調べずに(前回公演のレポなども見ずに)当日を迎えました。
15時開場の16時開演予定で、15時50分ごろに座席に到着。
有明アリーナにも初めて来ましたが、中がこんなに広いとは。
豊洲駅にも初めて降りたり開場まで周辺を散歩して公園でピクニックして過ごしたり、何もかもが初めてで新鮮でした。
幾度となく音楽に心動かされる、そんな体験をしてきたからこそ、いかなる時もこの『初めて』の体験を大切にしたいものです。
朗読劇からはじまる
16時を5分ほど過ぎてから開演前のアナウンスが流れ、15分くらいからいよいよ本編が始まりました。
芸術ともいえるライブ構成はヨルシカ独自の世界だということはご存知の方も多いだろう。
生の音楽(もはや作品だと思う)を着席しての観覧というヨルシカスタイルは、やはり他のアーティストとは一線を画すものだと早々に感じた。
まず、主人公である画家が自身を売れない絵描きとして語るところから今回の物語は始まった。
彼の部屋にはピアノがあり、ベートーヴェンのピアノソナタ『月光』のイントロ部分を繰り返し弾くと、次々に動物たちが現れ、奇妙な踊りを踊り始めるのだった。
文学的な音楽
朗読劇での導入のような語りがなされたのちには、この月猫のコンセプトと重なる『ブレーメン』が披露される。
というのも、ヨルシカ好きならこの曲のジャケットイラストを思い浮かべたことだろう。
そう、様々な動物が楽器を持った姿が描かれているのである。
動物たちが音に合わせて踊る姿が思い浮かぶ。
この物語の始まりを彩るにふさわしい1曲目だなと思う。
スクリーンには映像作品と歌詞が表示されるとともに、光の演出が美しく会場を照らす。
初めてsuisさんのシルエットをこの目で見ることができた…!
それだけですでにかなり感動している。
しかも当然の感想かもしれないが、めちゃくちゃ歌上手い!
もうほんと小さな子供みたいな感想だが、本当に歌が上手いし、揺らめきつつ歌う姿はまさに歌姫だ。
映像で見て予想していたよりも、本物のsuisさんは意外とすらっとしていて背が高いなと冷静に分析しながらも、ヨルシカチームの生音・生歌にテンションがあがる。
続けてドラムで鳥肌モノの繋ぎ方がされた2曲目には、ヨルシカの曲のなかでもかなり認知度の高い『雨とカプチーノ』が披露された。
主人公の画家の生きる日常が過ぎてゆくさまや彼の心模様を映すかのようだった。
スクリーンには歌詞ともにカプチーノが入ったコーヒーカップが宙に舞うようなアニメーション映像が流れていた。
踊るカナリア
2曲が披露されたのちにはステージが暗転し、再び朗読パートへと移る。
窓辺に飛んできたカナリアは、やはりピアノソナタ『月光』のイントロ部分に反応するのである。
カナリアの羽音は、サポートメンバーであるドラムのMasack氏が布でできたかハタキ(?)のようなもので表現する。
朗読を通して言えることだが、楽器を用いてあらゆる生き物たちの音を表現している点には、音楽と芸術の狭間にあるヨルシカらしいなと個人的には感心していた。
朗読劇のあとには『さよならモルテン』(画集アルバム「幻燈」にのみ収録されている)が披露される。
サビに独特のキーの上がり方をする「さよならモルテン」のフレーズは非常に印象的だ。
カナリアのような自由に羽を広げる鳥たちが、力強く風を切り空を飛ぶような姿を連想させる『又三郎』では、サビ終わりに全員で声を合わせる「どっどど どどうど」のパートに心を震わせる。
その際にスクリーンに映し出されている「どっどど どどうど」の歌詞の字体からも力強さと迫力を感じる。
踊るカエル
再びの朗読パートでは、カナリアに続いてカエルが画家の元を訪れる。
以前、同じようにカナリアが『月光』に引き寄せられてきたことを思い出す。
「カエルに帰れ…なんてつまらないこと言わせるなっ!」という謎お笑い要素ぶっ込んできてフッとなりました(笑)
そうして披露される『月に吠える』では、音源同様にn-buna氏の咳払いや息遣いまでも表現。
さらには、なんともいえない奇妙さと不気味さを感じさせるようなメロディから、ところどころで鳴らされる「パッ」という気の抜ける音にも、一瞬一瞬に身も心も釘付けとなる。
スクリーンには、まさしく月とさまざまな動物たちを掛け合わせた映像が流れる。
やはり「月」はヨルシカの作品において非常に核となる表現なのだと改めて気づかされる。
音源で聴くよりもより尖って聴こえる演奏も、suisさんの曲に合わせた重みのある歌唱力や暗さのある表現力も素晴らしい。
激しく動くn-buna
そして、ヨルシカの楽曲で唯一と言える、コンポーザーであるn-bunaがメインボーカルとなる『451』の衝撃たるや。
あのn-bunaが!
前に出て!激しく動き回っている!!
しかも、音源よりさらに激しく表現される歌唱!
動き回るn-bunaにもはや遅れをとる照明(笑)
私自身もかなり興奮したが、周囲の人たちも激しく動くn-buna氏の動きや歌唱に沸き立ったのが分かった。
曲を聴くとわかると思うが、サビに繰り返される「燃やして」と「踊って」のフレーズの前には歌詞にない「え、」という発声が確かにある。
「絵」のことだとも捉えられるその「え、」にはもしやこうしたライブ構成の伏線的な意味があるのだろうかと思わされる。
画家がこれまで描いてきた「絵」に対して心躍る心情と、同時にすべてを燃やしてしまいたいような激しい破壊衝動のようなものを感じた。
カメラが入っていたので、確実に映像作品として残るであろうことがありがたすぎる。
あれ見れただけでも元取れてるよ絶対、ありがとう…
元恋人の存在
画家の元を訪れる動物たちの話を元恋人にしている様子が朗読劇では表現される。
展覧会などを企画するイベンターをやっている元恋人は、『月光』に合わせて踊る動物たちの話を電話越しに信じていないようだった。
しかし、彼女は「その動物たちをモチーフに絵を描いてみたら?」と提案するのである。
電話を切り、昔彼女に言われたセリフを思い出す主人公。
「面白みがない」
自身も、己の作品は捻りのない、まるで写真かのように頭の中の風景を精巧に描き写しているだけだと言う。
そして、これまで描いてきた作品も振り返る。
教会や異国、風景といったワードにエルマとエイミーの物語を想起した人も多いだろう。
「絵の雄弁さはときに言葉と変わらない」
と元恋人に言われたときには、自分自身が以前彼女に語った言葉であることはすっかり忘れてしまっていた。
絵に対する情熱や心持ちの変化が感じ取れる。
この朗読に続く楽曲パートでは、セッション形式のイントロから古典文学を想起させる『都落ち』が披露される。
これまでスクリーンに映されていた映像はあえてか流れておらず、純粋に心の底から音楽に没頭する時間だった。
落ちサビのsuisさんの咳払い…(悶絶)
『都落ち』の文学的な表現が好きすぎるし、元恋人とさまざまな意味合いで(物理的にも心理的にも)離れてしまったという状況を表すようで胸が苦しくなった。
置いていかれてしまうような焦りや漠然とした不安感。
優しさ溢れるsuisの歌声とは裏腹に、主人公の胸中を想像してそんな気持ちが沸き起こる。
ジワジワと胸に苦さが広がるなか、続いて披露されたのは『ただ君に晴れ』。
ヨルシカの代表曲と言えるこの曲をようやく生で聴けたことが本当に嬉しかったし、ばっちり手拍子できて誇らしい。
しかもスクリーンに映されている映像のなかで、見覚えのある風景がいくつも登場して心がさらにザワついた。
あの、エルマとエイミーの物語に出てくる風景たち…
こうした細かな部分からこれまでの物語との繋がりを匂わせるヨルシカの芸術性(n-buna氏の表現力の素晴らしさ)は語り尽くせません。
公演後にX(旧Twitter)を見ていて気づいたのですが、suisさんが冒頭の「だけ」を歌うのを忘れていたらしい(笑)
嬉しさのあまり気が付かなかったので、後日映像作品で確かめたいと思う(もしかしたら補正されちゃう?)
音楽パートでの声出しや手拍子は公式に許可されていたが、完全着席での朗読劇を交えてのライブ形式による独特の緊迫感ある雰囲気では、正直なところ声出しも手拍子もあまりきこえなかった。
今回初めてのヨルシカのライブ参戦であるため、私は昨年のレディクレでの声出しOKスタイルのヨルシカを体感していない。
両者に良さがあると思うが、じっくり作品に没頭できるので今回のような少し張りつめるような雰囲気はとても良いなと個人的には思う。
そしてこれが一種のヨルシカにしかない世界観であり、ヨルシカでしか感じられない芸術ではないだろうかと。
沁みる一曲
『チノカテ』では、MVをオマージュした実写映像(朗読劇の主人公)がスクリーンに流れた。
サビ前の「あ、夕日」で訪れる一瞬の静寂が本当に美しい。
そして、歌詞の情緒的な歌詞表現もまた魅力的だ。
花瓶の白い花
枯れたことにも気付かなかった
本当に大事だったのは花を変える人なのに
ヨルシカ『チノカテ』より
穏やかで包み込むような曲調のなかに、ある種の諦めとも言えるような達観が確かにある。
この切なさだ、この苦しさだ、ヨルシカで得る感情は。
ここにきて本当に良かった。
「幻燈」限定収録曲より
朗読劇の部分では、さらにさまざまな動物たちが画家の元を訪れる。
コウモリ、カメレオン、兎、羽虫、牡鹿、さらにはフクロウまで。
牡鹿はそのからだの大きさから家の中へは入れなかったために、窓の外で『月光』に合わせて踊っていた。
フクロウに関しては、これまでの画家の家を飛び出し、海辺へと場所が移る。
両手持ちの鍋にフクロウを乗せ、物思いにふけながら、海辺に落ちているおもちゃのピアノで音を鳴らすのである。
それまではステージ中央から客席へと突き出した花道的な場所で演技していた主人公が、初めて楽器セットのあるステージへと移動した瞬間だった。
そんな場面から『第五夜』『雪国』『いさな』という画集アルバム「幻燈」にのみ収録されている楽曲たちを立て続けに披露。
suisさんは当初のセットアップ姿から上着を脱いだシャツ姿へと衣装チェンジ。
暖かな春の前にやってくる冬の厳しい寒さを連想させる『雪国』の流れから、鯨という海の生命を連想させる『いさな』。
曲の終盤にはギターのn-buna氏と下鶴さんだけがステージ上に並んで照らされ、その音を奏でる。
以前行われたエルマとエイミーの物語である【月光 再演】ライブでは「僕らは鯨だ」というセリフが冒頭にある。
ここで『いさな』を披露する意味として、それらの物語との繋がりを思わせる。
厳しい寒さの冬から暖かな春への移り変わりが、ヨルシカが描いてきた生命の神秘(前世や輪廻)の象徴のようでもある。
また、今回の朗読のなかでも何度も口にされる「月光」というワードも、これまで月の光によって結び付けられてきた前世の数々の記憶が、この物語においても重要な役割を果たしていることが分かる。
驚きの曲を
朗読では、電話越しに元恋人から「踊る動物たち」をモチーフにした作品を展示する個展を開かないかと誘われる場面へ。
ここで、アニメ「僕の心のヤバいやつ」のタイアップ曲となった『斜陽』が披露される。
『斜陽』を音源で初めて聞いた時の心を打たれた感覚、それを悠々と超えてくるこの初披露ですよ…
照明がまた、オレンジの夕焼け色でなんとも言葉で表せないほどに美しいのです。
こんな日常にある「美しい場面」をもっと大切にして、噛みしめて生きたいと思わせてくれる。
その後に披露された『靴の花火』でも、夏の風物詩である花火の素晴らしい映像が音楽を彩る。
ヨルシカにとって初期の楽曲なわけだが、こうして時が経っても披露されるこの曲は大切な曲なのだろう。
ねぇねぇ 黙りこくっても言葉要らずだ
目ってモノを言うから
ヨルシカ『靴の花火』
Aメロのフレーズだけでも、この【月と猫のダンス】という物語を表現しているような気がした。
この世のすべては「言葉」であり、その「言葉」を音楽や文学、芸術などといったさまざまな表現方法で語る。
この主人公にとってはそれが「絵」だった。
「絵」で言葉を語ろうとしながら、春から夏へとまた季節が移ろう。
時とともに人は変わってゆくものだし、季節だって風景だって環境だって変わってゆく。
一見すると変わっていないと感じることでも、時が経つという変化をしている。
だから、無理に変わらなくてもいいし、変化を急ぐ必要もないと音楽で優しく抱かれたような気がした。
猫との出会い
次の朗読パートでは、動物にエサを与えているのではないかという疑惑を持たれ、おそらく楽器の音に対する苦情もあったのか、彼の部屋に置いてあったピアノ(大家のもの)が回収されてしまうことに。
個展の準備に忙しく日々を過ごす画家の元に、その夜は猫がやってくる。
ふいに猫と目が合うと、「深い夜のようなこの目(=エイミーの瞳の色)を見たことがある…」といにしえの記憶が呼び起こされる。
そして画家の頬を伝う涙。
〈もしやこの猫はエイミーの生まれ変わりなのか…〉
この場面でも、過去にヨルシカが描いてきた物語を想起した方が多くいたことだろう。
ここで披露されたのは大大大好きな『左右盲』で、無事に( ´ ཫ ` )チーンと瀕〇状態になりましたよ…
別れてから、右も左も分からなくなってしまうほどの存在だった貴方(元恋人)のなかに、何かひとつでも記憶に残るものがありますように。
忘れられない想い出がどうかありますように。
これは今回は披露されていないが、『夜紛い』に登場する「君が後生抱えて生きてくような思い出になりたい」というフレーズに通ずる感情が根底にあるに違いない。
そして余韻冷めやらぬ中、ここでまさかの『春泥棒』…!
以前、日本武道館で行われた【前世】ライブにおいて、物語の核となる重要な曲だったこの曲を、まさか今日生で聴くことができるとは思いもしなかった。
この曲のMVは、盗作おじさんとその妻(ここでは詳細な説明は割愛)が過ごした時間経過を一曲に描くような壮大なスケールでのアニメーション映像作品となっている。
今回のライブでは、そうした男女2人の物語映像からこれまでに画家の家を訪れた数々の動物たちが登場するものへと再編された映像がスクリーンに映される。
ご存知のとおり、ヨルシカで描かれる作品では、最終的には大切な人と離れ離れになってしまったり、今生の別れを経験したりと、一貫してそれぞれの物語に登場する人物が感じる「別れの切なさ」や「生命の儚さ」が描かれる。
今回はそんな「別れ」「生命」という主旨はもちろんのこと、輪廻転生の先が必ずしも人間であるとは限らないという無常感を感じさせた。
また、『春泥棒』に込められた物語を知っているからこそ、「実はそれらの記憶(盗作おじさんとその妻の物語)を、当時さまざまな動物たちが第三者的視点から見守っていてその記憶を引き継いでいる動物たちは導かれるように画家の元に現れたのでは」と思いをめぐらせた。
有明アリーナの周辺にもたくさんの桜が咲いていた。
桜を見る度に、4月になるとヨルシカの音楽が頭の中を駆け巡るほどに代名詞となった「春」はヨルシカにとって(というかn-bunaにとって)大きな意味を持つのだ。
そして、いよいよこの画家の物語は終盤だろうと思わせる『アルジャーノン』が披露される。
ゆっくりと変わっていく
僕らはゆっくりと忘れていく
とても小さく
少しずつ崩れる塔を眺めるように
僕らはゆっくりと眠っていく
ヨルシカ『アルジャーノン』より
「終焉という名の永遠にも似た時間だ」
そう思った。
儚くて弱いのに強かで温かく柔らかい。
焦って変わろうとしなくたって、少しずつ少しずつ長い時間をかけて変化していくものだ。
ゆっくりとゆっくりと、時間が経てば忘れることも薄れていくことも。
「時の流れに身をまかせる」、それでいい。
心のままに生きていいし、それでこそ人生は豊かになる。
そう肯定してくれているかのような穏やかに流れる悠久の一時だった。
元恋人役:suis
そして場面はついに開かれた個展へと移る。
個展は好評で、過去作も含め多くの作品が売れたし、次に繋がる仕事も得ることが出来た。
彼にとって転機ともいえる個展の立役者である元恋人(のちに知ることになるのだが、suisさんが演技していた…!)が登場する。
なんで背中を向けて演技してるんだ?と疑問に思っていたが、まさかsuisさんの演技があんなに上手いとは。
もちろん声質もいいのだが、発声だったり感情の込め方だったり総合して素晴らしかった。
最近は個人の仕事として声優デビューもしていただけに、彼女の表現力には目を見張るものがある。
どんどん進化するsuisさんの表現力と、揺るがない根幹を持ちながらも変化していくn-buna氏の思考やアウトプットがこれからの作品でどんな良い化学変化を起こすのか楽しみだ。
この画家の物語の顛末としては、彼の元を訪れていた動物たちは踊っていたのではなく、ピアノが弾きたかったのではないかというものだった。
個展で久しぶりに再会した元恋人はすでに結婚しており、左手の薬指には煌めく指輪をはめていた。
そして仕事を楽しみながら私生活ともに充実した日々を送る元恋人のことを眩しく感じながらも、画家自身もこれからきっと自分自身の生活も変わっていくのだろうという明るい未来の予兆を感じさせていた。
そのきっかけとなった個展を開くにあたってモチーフとなった「踊る動物たち」について、彼女は主人公との会話の中で「この動物たちはあなたにそっくりね。特にあの猫なんてピアノを弾くあなたにそっくり。」と言及するのだ。
そうして、思いがけない指摘にハッとする主人公がこれまでの記憶を遡ってみると…
〈もしや踊っていたのではなく、ピアノが弾きたかったのか…?〉
と思い至ったところで終幕。
画家の男役:村井成仁氏が深々と客席に向かって礼をすると、ライトが消え、その後ろのステージに再び現れたsuisとn-bunaも深く礼をし、拍手に包まれた。
ヨルシカの『音楽』に触れて
最新曲『晴る』はさすがに組み込んでこなかったか…と半信半疑で期待していたためにほんの少しの落胆で済んだ。
あの曲のMVを見た時の衝撃から、きっとあの曲は次なる物語の重要な曲なのだろうと思う。
正直この初ライブまでにヨルシカの音楽について考えすぎて、個体さんたちのヨルシカの音楽に対する考察や過去作などを振り返りすぎて、知らず知らずのうちに期待値が跳ね上がってしまっていた。
それだけに、終演後には喪失感や虚無感、それと同等に充足感を得るのだという心づもりをしすぎてしまって拍子抜けしてしまった感は否めない。
しかし、それでもこれだけの余韻や解釈の余地を残したライブという作品を作り上げるヨルシカは本当にすごい。
帰宅中も帰宅後もさまざまな人のライブの感想や考察を読み漁り、さらにこの【月と猫のダンス】という作品の理解が捗った。
ヨルシカは私の大好きな「エヴァンゲリオン」に通じるものがあると感じている。
自由な解釈が可能で、その余白こそが深みを生み出す。
終演後にX(旧Twitter)で知り合った個体さんと初対面を果たした。
その際に彼がこんなことを呟いた。
「月光ソナタ」といえば、『盗作』の初回限定盤についてた「月光ソナタ」のカセットテープを思い出した。
そうか、そんなところにもn-buna氏の創作は散りばめられているのかと驚嘆した。
本当の意味での作品の意味はn-bunaさんにしか分からないのかもしれない。
ただ、純粋に音楽をいいと思ってもらいたいという彼の思いとは矛盾するようにも感じられるが、FCの後書き(コラム)では作品に関する制作意図や背景を語ってくれることがある。
それを読んでの発見だったり、逆にギャップを感じたり、作者自身の言葉が表される度に、ある意味で「n-buna」「ヨルシカ」というアーティストが自身の言葉を発することによって消費されていくようにも感じる。
そんな矛盾を抱えながらも、音楽や作品、物語に込められた意味や解釈を、SNSや検索エンジンが発達した現代の拘束的な自由のなかで深め、自分の心と重ねることによって得られる快楽が確かにここにある。
これからもヨルシカが紡ぐ物語を追い続けたいと思った。
今のところ次なるヨルシカのライブの予定はないが、またこの貴重な感情の動きを体験できる日を指折り数えて、ほどほどに頑張ります!
精々楽していこうぜ
死ぬほどのことはこの世にないぜ
ヨルシカ『ブレーメン』より
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
後日ヨルシカについてまとめた記事も追記したいと思っていますので、ぜひご意見やご感想などをコメントしていただけたら嬉しいです!
コメント